大変遅くなりましたが、特別寄稿へのコメントとして…。
ルールは社会においてその時点における仮の決定という面があると思います。後半に書かれていますが、ルールはいつでも動くし、ルールを守らなかったのかそれともルールを制定した時点で成り立っていた条件均衡が、今この瞬間に当てはまらなくなったのか。そうであれば、それを認識した者が、そこでゲーム中断を申告する必要があると思います。
もうゲームはやれない。
ルールの中で行えない状況が生まれた時点で、時代が変化しルールの変更が求められていると考えます。ということで、ゲームをやめるのが良いと思います。そこに美を持ち込む必要があるかはわかりません。それが「美」による脅迫になる可能性もあります。でもちっぽけな脅迫です。負け惜しみと言われるのが関の山でしょうか。
もしくは、変動するルールに対抗して常にインプロヴァイズするか。そのインプロヴァイズを美とするならばそれもありでしょうか。でも、インプロヴァイズは能力や鍛錬が必要です。
もうゲームはやれない。
ゲームを放棄しているようですが、先にルールを放棄したのは相手でしょう。もしくは甘んじて負けを受け入れ、己の美を主張するか、誰かに代弁させるか…。芸能的演出欲求があるならばそれもひとつの案かもしれません。
ルールが変わったら、場所を移動する。それは逃げに見えますが、ルールを替えたやつが先に逃げたわけですから。
人間が同じ場所にいるには、ルールを守り合う必要があるという認識は、今の世の中ではほとんど無くなっているのかもしれません。そういう意味では、その認識を確認するために場を降りるということで良いのではないでしょうか。ルール外でも勝てる見込みがあれば別でしょうけれど。
もう同じ土俵には立てない。同じ土俵では無くなった。
ということを表明してはどうでしょう。
(m01)
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