つい先日、内輪で「ルールを守ろうとする人間が、ルールを守らない人間をいかに御するか?」というテーマで大いに語り合った。自分としては、このテーマの根幹は「いかに御するか」ではなく、「ルールを守るとは、いったいどういうことなのか?」の方にあると思っている。「御する」方法は、さまざまな条件によっても異なる、ある種のテクニカル・マターだが、「ルールを守るか否か?」は、テクニカル・マターではなく、その人の人生そのもの、つまり「生き方」に関わる問題となる。

ではルールとは何か? スポーツにおいてはどうか。そのルールの下で、選手は平等である。選手達は、有名であろうがなかろうが、実績があろうがなかろうが、そのルールの下で誰もが平等だ。さらに、主張することができる権利も平等だということになる。そしてスポーツの場合、それを守らないという選択肢はない。なぜなら、ルールを守らないならそのスポーツをやる意味がないからだ。守る気がない人はそもそもフィールドに立たないし、そのための準備もしない。

では交通ルールとは何か? 現状のルールの下で運転者や歩行者は誰もが平等だろうか。ここで考えるべきは、「法律として明文化されているルール」の下では、同じ乗り物に乗る人は平等だと言えるだろう。では平等でないのは……?

まず1つは「車(個々)の能力による差」がある。例えば、排気量が違えば収める税金の額が違う。
もう1つは、「法律としてのルールではなく、習慣化されたルールの下」では平等でないということだ。なぜなら、習慣化されるものはその人によって異なり、ルール自体(もしくは「ルールだと思っているもの」)が相対化されてしまうからだ。「日常生活におけるルール」とは、この「相対化されたルール」のことを指す。すなわち、そのルールに意味を認めているか否か、が大きな問題となり、意味を認めている者同士であれば、容易に同意を形成できるが、意味を認めていない者同士は、何らかの大きな力が働かなければ、同意に至ることができないだろう。

ここで言うルール、それは、何かを制限するという類いのものだけではなく、そこに意味や美しさを見出すことができる「美徳」という要素も含まれていると考えるのが普通だろう。「電車内で携帯電話を使って大声で話す」という事例を考察えると、「日常生活におけるルール」の中には、「大声で話すべきではない」という「制限/抑制する面」と、「電車内での行住坐臥は、いわば密室といえる小さな空間の中で他人の迷惑とならないことを美徳とする」という「美の面」が表裏一体となっているはずだ。そしてむしろルールというものは、後者の美の側面から出てくるものと言えるのではないか。

しかし、ここを覆すのは簡単なのである。「美の側面」を否定すればいい。つまり「それは美ではない」と言えばいいのだ。それは即、その表裏一体をなす表側「抑制する面」をも否定することができる。そうすることは美しいことではないので、制限される必要もない。

この時、つまり、「それは美しくない」という人に、それが「美しい」ということを、我々は伝えることができるのだろうか? そしてそもそも、それを伝える権利を、我々は持っているのだろうか?

1つの懸念が過る。それはルールが「美」から派生するものではなく、実は「抑制面」が主で、それが美であるということ後付けしているものの場合だ。そこには「ルールの作成者」がいる。ここ(ルールが及ぶ人的範囲)では〜しないようにしよう、というルールが、人的範囲の最大幸福(=平等でもよい)のためでない場合がある。抑制することが主な目的のルール。「ルールは破るためにある」とよく言われる、そのルールの筆頭に挙げられる類いのものだ。最初に懸念と言ったのは、この類いのルールが「美にすり替えられる」ことも多いにあるということだ。「出る杭のないように」という制作者側のルールが、いつの間にか美にすり替わって語られるのはとても危険なことだといえよう。これは「教師と生徒」や「権力を持っている者とそれに従う者」など、主従関係の中で生まれやすい。例えば学校の制服。学生に制服を着せることで減る教師の仕事は多いのではないか。もちろん学生側で減る負担もあるし、それを逆手にとって、実際に制服=ブランド化ももはや定着しているが、それは学生側の「知恵」だと言えよう。近年では、学校側がまたそれを逆手にとって、学校が生徒集めのための「売り」にしている。ほら、学校の「売り」にもなっているほどブランド化した制服は、それを求めて集まる学生達にとっていつの間にか「美」になってしまった。しかし、なぜ全員が同じ服を着なければいけないのか? 「美」となることで、為政者の「目的」にヴェールがかけられて見えなくなる、という「刷り込み」に近いこの手のルールは非常に危険だ。こういうルールは乗り越えられるべきものに違いないが、このルールが美がどうかに関する意見の違いは、世代間を中心に、多々あるだろうと思う。

ここで問題になるのは、「乗り越えるべきだ」という意見は、なぜ成り立つのか?だ。それが美でないことに気づいている人がいる? しかもそこに気づいている人は、「乗り越えるべき」だという、何か特権でも持っているかのようだ。

そう、話は戻った。美であることを伝える権利、それが美でないことを伝える権利(どちらも一緒)は、誰が持ちうるのだろうか? それは普く、誰にでもその権利があるということが、この現代社会の基盤となっている。過去に、物を言う権利もなかった時代を“乗り越え”て、誰もが等しく何が美であるかを主張できる。「相対的な美」を、だが……。

ならば我々は現代というこの時代に「絶対的な美=価値」を求めるべきなのか? いや、そうではないだろう。ただ、戦後、抑圧された過去の清算と同時に権利主張=「物言う我」を獲得した一方で、我々は、その表裏一体に存在した「(ルールが及ぶ人的範囲内で)習慣化された美」をも、一気に(物も言えない抑圧された過去と共に)清算してしまったのではないか? これまで私が使ってきた「ルール」という言葉は「静的」な性格のものに思えるかもしれないが、本来ルールとは、もっと人と人との意見の多様性の中でぶつかりあり収斂されて、明文化されないまでも習慣化し、伝播・継承されていく、もっとダイナミックなもの、非常に文化交流的なものだ。連綿と続いてきた膨大な人間の営みの中で育まれ、その上に自分も立っている「文化」と、「自分の美」を、我々は、いつしか切り離すようになってしまい、同じ言語ゲームを繰り広げるための「共通の基盤」をどこかに置いてきてしまったのかもしれない。その共通の基盤こそ、スポーツにおけるルールのようなものなのではないか。そのルールに従わなければ、この言語ゲーム=人生ゲームに参加する意味がないのだ。なのに、このゲームに参加する「意味」を説く人がいない。

60年代、学生運動で燃え尽き症候群となった世代は、この「意味」をどう自分の中で消化していったのだろうか?

(了)