2009年4月


マーマレイド・グッバイ!!!
いけないところに触れちゃいましたよこの人は(笑)!!!

まずはどうでも良い極私的分類から。日本的なのだと思ってます。和風ハードAOR的な要素が立ち上がっているというか。歌詞はともかく、アレンジと青山純のドラムが、武士というか剣術というか、覚悟とか潔さの匂いの硬派なカッコヨサがたまらんのです。ドラマチックでスピード感や疾走感とごっつい背中の広いオヤジみたいな無骨な安定感と言いましょうか。

この曲の素晴らしさ。冷静に書けないですねいざとなると。もうとにかくカッチョイイと心が悲鳴をあげてるとしか。そりゃなんと言っても青山純のドラムの素晴らしさ。この音、そしてこのタイム。フレーズの勢い、隙や迷いの無さ。イントロ冒頭の振りモノ音色の打ち込みで「シッシキシッシッ」が始まった瞬間にすべてを理解させられるようでもあり、ドラッグを絡めて一刀両断なリムショットで入ってくるスネアのフィル。あ〜でもこのスネアのピッチの後、ベースが一瞬違うキーに聞こえるような不安定さを感じるんですけども。そしてその後ドラムはハイハットを刻んでますけども、このアクセントの付け方、メリハリ感がたまらん。躊躇無く鋭角に斬り込むスプラッシュ、プリプリのアタックと太い輪郭に満ちたバスドラム。サビまではハットの刻みと2・4拍のバスドラムで、1’04″からバスドラムがダブルになり、16分ウラでターンしたかと思うと、タムから始まるサビ幕開けのフィルが炸裂。これでもかっつうスネアの唸り。そして強烈な太刀を感じさせるバックビートが加わってからは、すべての車を抜き去った後、前方に誰もいないハイウェイをかっ飛ばすかのような疾走感。それにしても、このドラムの音はホントに素晴らしい。捏ねて寝かせてグルテンが強烈に形成された状態。コシはあるが、固いだけではなく、歯触りが良く口腔内を心地よく刺激し、喉越しの満足感が深い。多少塩分きつめという意味では讃岐うどんに近いかも。しかも善通寺の山下とか。2コーラス目はバックビートを残したまま進み、サビ前1’52″でハイハットがややオープンしたのを皮切りに「ウラカカカカカ」とエンジン出力最大に垂直上昇するスネア・フィル。これはもう地球が振動してるんじゃないすかね。このフィルを何度真似して叩いたことか。初めて自分でソナーを買った時には、このフィルを真似して、その具合でスネアのチューニングの基準にしてみたり。青山純というドラマーの良さが超凝縮して詰まって、あふれ出てますねぇ。曲は3’15″に「さよならさ…」と歌が終わるもの、淵野氏のSax Soloがこれまたバギョーと1分以上続きF.O。この演奏の太さはなんだろうかと考えさせられる。そんな圧倒感。エネルギーが形になって表現されていることへの清々しさ。しかしおそらく演奏している本人達には余裕すらあるだろうと。余裕ある最大出力&最大トルク。疾走感という意味では、卑近ではありますが今井美樹のRetourなんかで見られる山木秀夫と青山純の違いをもってすると山木秀夫の方が瞬発的な切れ味はあるかと感じつつ、青山純の太さと重さとそれを鈍重に感じさせない小気味よさや潔さ、そして何より山下達郎との意思疎通の積み重ねがこれを生んでいるのでしょう。

それにしても、このアルバムは曲がバラバラというか、もうなんでもアリというか。重厚とも言えるし、改めて聞くとこんなにいろいろだったっけと思うほどで。新東京ラプソディの脳天気さ、ゲットバックインラブでちょっとおセンチになって、The Girl in whiteでアメリカ懐メロ&アレンジ的には夏ぽくなったかと思ったら寒い夏でちょっとうら淋しくなってもまた踊ろよフィッシュでウキウキになりつつも青山純のブリブリアタックでビンタくらったみたいになって、そんなこちらの気配を察したかのような打ち込みから始まるルミネッサンスで少しトーンダウンしたかと思わせといて後半はまた分厚く盛り上がって、そしてついにマーマレイドに。カッチョエエ〜と唸りつつ、フェードアウトするサックスの最後の最後までフレーズを追っかけているうちに蒼氓が始まる。なにやら山下達郎のまた新しい一面を感じつつ(あの当時)、これまた良い曲だなぁ。ランランラ・ラララ・ラ〜ラッラ〜ラ〜…と一緒に歌いつつ重いスネアに合わせて膝を叩く自分に酔いしれながらギターソロでワビサビとか感じちゃったりして。心地よい疲労感に包まれつつ、たしなめるかのようなイントロから始まるタイトル曲。これはCMに使われましたっけ。これまた疾走感が素晴らしいんですよね。校庭で遊んでいるときに学校の下校のチャイムが流れてくるというような、なにか終わりであるとか今日はここまで〜的な気持ちで締めくくられちゃって、結局また頭からもう一度聴いちゃう、みたいな。

調べてみるとこのアルバムは88年発表、この時期は個人的にガッドやウェックルというフュージョンの流れから、歌が聴きたくなっていた頃だったんです。今井美樹で上田知華や佐藤準の世界にハマってみたり、桑田佳祐のソロ一作目を聴いて、藤井丈司氏の打ち込みドラムにちょっと納得してみたり。アレンジの妙というか、なんでこういう仕上がりになるんだろうと思って聴いていたときに、M1悲しみのプリズナーの始まり「さぁ部屋中を暗くしてくれ〜」という歌詞を理解したときに「日本語の歌い方」っていうのはいろいろ進化があるのだなと気付かされて。それまでは日本語の歌詞ってなんかなぁと思っていたわけですが、日本の歌もすげぇなと。まぁ恥ずかしながらそれまで日本語の歌とかあまり興味なかったんです。菊地桃子以外。で、そういう視点でアレコレ歌を聴いてみると、その裏側にポンタ、青純、山木のようなドラミングの理由が少し感じられたり。英語のドラミングから日本語のドラミングに興味が移っていたり。小林武史がソロを出したときに、やっぱり高橋幸広スゲーこの人も歌なんだなとか、レコ発で芝浦インクスティックで聴いた山木秀夫にはメチャクチャ痺れました。終電を逃し、あのバスドラムとスネアを忘れてはならん〜と興奮しながら家まで3時間くらい歩いて帰ったりとか。とはいえ、日本のポップスを全般聴いたかといえば全然そんなこともなくて、佐藤準と当時の小林武史が好きだった、程度のことなんですけども。あぁやっぱりただ自分の周辺を思い出すばかりになってしまう。てかもう思春期ではなかったわけですが、いろいろ染み込みやすい時期だったんだなーと思います。こうして書いてみて「僕の中の少年」も、そういうことと切り離して考えられないんだなと自分でもビックリしてます。ただの回想書き殴り。


この曲の素晴らしさ。それはもう冷静さは無くなるということで。あぁやはり書けませんでしたわー(笑)なんすかこのお題!誰かお手本見せて!たとえば山○雄一さん!なんか言って!

(m01)

 他者が暗黙知の表層化の誘因──なるほど! そういう考え方があったのかと目からウロコでした。そうか、「知は自分のもの」という奢りが、まさに知自身にヴェールをかけていたのか……。僕の最近の気になるテーマは「コミュニケーション」でした。誰とどんな話をしても、最終的には「コミュニケーションが足りないんだよな」という結論に達してしまうんです。他者はいる。そして関わらずにはいられない(関わりたいと表裏一体)。ならば、コミュニケートするしかない。「自分」を取り出すために他者とコミュニケートする。コミュニケートしないことは、「個」ではなく「孤」を取り出すこと。──まだまだ実感となるには程遠いですが、この場でのコミュニケーションが僕の大いなる一歩となる予感がします! 

 ここで新たなるお題です。

 先日、奇遇にも2人の口を突いて出た曲目──山下達郎「マーマレイド・グッドバイ─Marmalade Goodbye─」。この曲の素晴らしさって何でしょう?

『僕の中の少年』山下達郎(1988年発表)

『僕の中の少年』山下達郎(1988年)

[personel]●山下達郎 Computer programming, Electric Guitar, Synthesizers, Glocken, Percussion & Background Vocals ●青山 純 Drums ●伊藤広規 Electric Bass ●難波弘之 Symthesizers ●中西康晴 Acoustic Piano ●淵野繁雄 Tenor Sax Solo

GKさんから秀逸なコメントが寄せられましたので、リレー発言と見なして投稿いたします。

(以下GKさんからのコメントコピペ)

しかし、このブログ、他者がコメントしづらいですな~。。

お二人の会話を盗み見ている印象としては、最近の自分自身の気になるテーマである「認識知と暗黙知」の違いの話っぽくて我慢ならず食いついてしまいました。。

自分が意識している、意識していないに関わらず、人間というのは一度触れた事柄は、思考の表層にいるか、奥深く眠っているかの違いはあれ全て記憶しているらしい。

後者の知識で、他者と接することで表層に浮かび上がってくるものを「暗黙知」と呼ぶようなのだが、私自身、色々なシチュエーションで実感することが多く、この一年くらいず~っと考えさせられている事柄でもある。。

誰しも、他者とのコミュニケーションというトリガーによって、まるで自分じゃないような言動がドンドン行われることがあると思う。これこそまさに暗黙知の表層化に違いないのだが、これは無意識の意識化と置き換えることも出来ると思う。耳コピを通じて入力された情報が、あるときあるセッションで特定のコミュニケーションをとったことによって表出する自分自身でも驚く演奏!

なんとも素敵ではないか!

ここまでくればコピーとか物まねレベルではなく、まさに自分自身である気がするのは私だけなのだろうか?
(GK)

余談:しかしこれはあれですな、国際世論への配慮も含めこのリレーコラムの根源とも言える浅草会談の早々の実施が求められるところですな。(m01)

耳コピっていうのは、本家どりとかいうやつですよね。優れた作品を模倣してみることで、そこにどんな技術や手法が用いられているかを知るという。そういう意味では「コピーする=真似する」ではなくて、分析=アナライズつうことで「アナる」、とか「耳アナる」なんていうキワドイ表現の方が正確なのかもしれませんね。耳コピとかすると、作法とか心構えまで、ともすると顔つきまで似てきたりして、面白いなぁと思います。ある意味ではDNAレベルでの情報の受け渡しも含まれているのかもしれませんね。

なにかの本で読みましたが、科学者とかは膨大な資料を読んで置いて、一度それを忘れて、実験中などにそういう知識をあたかな自分がひらめいたかのように感じるそうです。著作権侵害的なことではありますが、むしろそれは良くあるようなことと書いてありました。そういう意味では、もう自分も他人も関係なく、ただひたすら研究の前進を目的としているというか…。こういう言い方をすると、多少デジタルな感じになりますかね…。まぁ実はもっともアナログな感じもしますけれど。

自分と他者っていうのは、これはもう哲学の領域なのでしょうけれど、他者と組することの中に顕れてくる…っていうのはすごく実感します。僕はある意味イタコ的に発想をしたいと思っているところがあるようで、いろいろヒアリングをしておいて、あとは相手の要望が乗り移ってくるのを待つというか。

少し話は飛びますが、このまえ日本上空を飛んだ飛翔体、ああいうことを考えるとやはり一蓮托生というか。他者も自分も、たとえば人間の身体を校正する細胞や分子がそれぞれ隣り合って複合的に関わり合い、それぞれに役割を担うというのと同じで、僕らも地球を構成する細胞のひとつなのだなぁと。でも、私という人間という個体は一定時間存在すると見られているけれど、細胞レベルでは常に生まれ変わっている。何を単位と見るかで、存在っていうのは見え方も変わりますよね。

ただ、僕も思いますけど、個体の人間として「自分がやったのだ」という喜びはありますよね。それって一体どういう心理なんだろう。どういう必要があってそういうことを感じるように出来ているのか…。そういう意味で、前におっしゃっていた「自分というブラックボックスを通す」ということが、これは経験や勉強によって構築された後天的な発想なのか、そもそも人間はそういうものを持っていて、そういう行程を通してやはりなにか生存に必要なものを得ているのかなぁ。

いやぁそれにしてもだいぶ煮詰まって濃くなって参りました。

(m01)