いや〜難しくも面白くなってきましたね。そういえば、自己認識はともかく、お互いにお互いのことをドッチ派だと思いながら話してるんでしょうかコレは。私はseimjという方は充分デジタルだと思ってますけど(笑)

人間っていうのは、能力拡張に対して夢というか原動力を持っていると思うのです。その中で、デジタルという情報伝達は便利な記号化なのではないかと。高速な論理処理、迅速な意志決定っていうのも、人間が「迷い」や「悩み」「停滞」を克服したいというところもあるんじゃないかと。僕なんかは、頭がスッキリしてる状態とかすごく好きで、いろんな発想や、自分の行動に対するビジョンやイメージが湧いてくることをいつも待っているのですが、どうやったらそういうものを拡張できるのかなと思っている感じです。ただ、そういうものを克服する→逃れたい→脆弱という図式もあるとも思います。お金を手に入れるのと似ているのかもしれません。それにしても僕は女性の返事を待つのに2週間待てないタイプですね〜。原稿はいくらでも待って欲しいですけど(笑)

最近、インターネットがいきなり使えなくなったらどうなるだろうかと思うことがあります。今、誰とも無く読んでもらっている自分の日記も、毎日読んでいるいろいろなサイトも見られなくなる。そして連絡はすべて電話や来訪、買い物はお店で。うーん。そうなった時に「ネットがあればなぁ」となるのか、すっぱりドラッグをやめたときの気持ちになれるのか。ヤフオクでついスネア買っちゃうとか、ブログ見て回るとか、そういうことに使う時間がなくなって、ついでに携帯もなくなったら、またヒマになるだろうな、でもイメージとかテレパシーとか念は強く復活するだろうなと思ってみたり。

マスメディアの縮図ってのいうのは、すごくあると思うんですよ。ラジオ風にやってみたい、テレビ風にやってみたい、アーティスト風にバンドをやってみたいっていうか。テープレコーダーにアナウンサーみたいな声で録音して「なんか俺ってばアナウンサーなれんじゃね?」みたいなことだけでも楽しい、みたいなメディアごっことしての楽しみ。そこには、形としての満足感があるというか。まぁギター持って髪の毛立てて写真撮って、それだけだって楽しいっちゅうか。まぁそんなのは縮図と言うにはまだまだのものでしょうけど、どんなに編集された情報でも受け手の咀嚼加減によってはこういうスタイル遊びにもなってしまう。ただ、こういうスタイル遊びが仕事になるのかならないのかと言えば、なって欲しいなぁとも思うんですよ。仕事に必要なのはなんなのかなーといつも思うんですけど、遊びと愛と哲学…かなぁ。遊びはクリエイティヴィティを支えるし、愛はコミュニケーション、哲学はクオリティでしょうか。哲学というより学問かもしれません。あれれ、つい先日書いた原稿みたいになってきました(笑)誰か一人のなかに、そういう要素が揃っている場合もあれば、無鉄砲でクオリティが満足でなくとも、とにかくやってしまうクリエイターを、愛と哲学で編集してディストリビュートする図式もある。

話を戻すと、デジタル情報の「編集」っていうものが確立されてないんだと思うんです。ネットなんかだと画面を見ている限りは2次元ですけれど、時間によって情報は変化する、しかし時間軸を含めた「伝わり方」をコントロールする編集作業を誰も知らない。受け手は無作為に、そして絶え間なく受け取り続ける。メールは「すぐ」来るものだけれど、「いつ来る」のかはわからない。そんなペースにさらされた人間が余裕という名の時間の隙間を失うという面。それを交通整理するための編集とは…。それは是非あなたにやっていただきたい(笑)ブログなんてのは、ひとつの「編集の形」だと思うんです。ネット上の文字=テキストに、「言外に漂うニュアンス」を感じさせるスタンダードな形態というか。普通に日記を載せてもなんか様になってしまう。ただ、ブログの形は僕の日記なんかを載せてもなんか違うんですよね。「言外に漂うニュアンス」が変わってしまうというか。おそらく取材対象とどう向き合うかっていうことを、自分相手にやっている。ある意味、ドラムもネットもそういう方向で使う意外にあまり興味がない。用意された娯楽とかあまり興味ないといいますか。おそらく自分を自分で編集する作業をやりながら死んでいくのだろうと思っています。ま、孤独で狭いやつなんですよ僕(笑)

自己本位という力を持ったときに、たとえば「取材」という仕事に対して持っているものは、愛なのかロジックなのか哲学なのか。そもそも学問はロジックなのか、哲学はロジックなのか、愛をロジックで表現できないのか。おそらくseimjという人の中にあるものは、あまりにそれは壮大すぎて「無常」という域に達しているのでしょう。というか、やはりそこに到達しているからこそ編集者なのでしょうけれど。

長くなりましたが、デジタルという視点で見たときにはツールの進化が見えやすくなるんだと思います。QuarkExpressを使うのがなんだか楽しい、Illustratorでの作業に何時間も没頭できる、みたいな適性を入り口として如何に「情報にする」という中心に近づいていくか。ただ、外側から見れば「なんでぇマックに向いてたって作品はできねぇぞ」てなことにもなるでしょうか。まぁツールを使おうが使うまいが一緒でしょうけれど。ツールっていうのを、身体拡張、脳の拡張を促すものと考えると、そこには「脳がサボルための」ツールと「目的に達するための」ツールがあると思っています。ツールは、今まで出来なかったことができるような気にさせてくれる面もあるし、そういう面を利用した商売もある。どんな複雑な問題にも「解」はあるんだという、勇気と希望と奢りの混じり合った世界。あぁこれってアメリカそのものですかね(笑)で、ツールの進化が見えると、本質である「表現についての考察」が時間的におろそかになったり、バランスとして見えにくくなりやすいのかなと。ま、スネアとかシンバルとかいじるよりとっとと練習しろって感じでしょうか(笑)

といったところで、ツールについて質問をしようかと思ったのですが、それよりもアメリカについてどう思っているのかを聞きたくなりました。「和」なものと「英」なものへの愛はあるでしょう?「米」については?(それにしても日本人の一番大事な「コメ」というアメリカにつけていながら、米問題とはこれいかに)

(m01)

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