2009年2月


僕の言う“編集”が“Design”というのは興味がありますね。どんなイメージですか? 僕は、編集も実感も、おそらくm01さんが意図している“営み”と同義のつもりで使っています。編集って、大袈裟に言えば“生き方”と同じなのかなと思ったりもします。ブラックボックスという表現は、あたかもそこで“編集作業”が行われるかのような誤解を招いたかもしれませんが、要は、「その中は他人にはわからない」ということが言いたかったわけです。僕が“私というブラックボックスを通すことが編集”と言ったときに意図した“編集”というのは、取り立てて何か特別なこと(編集作業)をするわけじゃない、誰に何を言われなくても誰もが否応なしにやっていることで、意味や価値を与える普遍的な行為のこと。「このカレー、辛い」と思ったら、それがその人にしかない意味となる=その人の自己性の回路を通る。その後の連鎖、例えば「このバーモントカレー食うの二度とやめよう」とか、「作るときにアレを足せば良かったんだ」とか、「でもカンゲキ!」とか、思考でも行動でも、その連鎖はすべて“その人にとっての意味”。これを1つの孤立した意味としてブラックボックスの中にひっそりと閉じ込めておくんじゃなくて、それ以外の、いろんな“自分にとっての意味”と混ぜ合わせたり、掛け合わせたり、重ね合わせたり、両方を引っ張ったり、突っついたり、投げたり、引き戻したり、欺いたり……ブラックボックスという無限の広がりの中で、無数の素粒子がいろんな速度でぶつかり合って、どんどん形を変えていくような感じです(素粒子がぶつかると形が変わるかどうかは知りません/笑!)。この連鎖も、その人にしか持ち得ないその人の固有の編集であり、連鎖の総体から生まれた感情は、その人じゃなければ持ち得なかった“実感”。 この実感は、人にとやかく言われる筋合いのものじゃない、ここを疑ったらおしまい、という意味で、「まず自分にとっての意味やストーリーを信頼する」と書きました。

ここでなぜいきなり“信頼”なのか? それこそ、いみじくもm01さんが“葛藤”と言った、まさに僕の中での“反動”なのです。僕も雑誌となって世に出る文章を書いていますが、安易な批判がとても怖い。それがまったく的を射ていなくても、心が痛みます。だから、なんとか論理に破綻がないようにきちんと組み合わせて展開したり、自分が知りうる範囲で、調べもしながら正確な表現を使ったりして、例えば言葉尻を取られないように自分を守っている。書こうとしている文章は、誰でもない“僕”の実感についてなのに、究極はその実感さえも時に疑っている自分がいて、筆が止まったりすることもあったり……自分の実感すら誰かに批判されるかもしれないという怖さ。もちろん表現する責任という重圧が僕の実感を押しつぶすこともありますが。そこで、「今一番足りないのが編集」ということを考えたとき、もしや現代は、僕と同じように、自分の実感すら疑う傾向があるのやもしれない?と思ったわけです。疑う、とか、心の中に“幽閉”してしまったり……。ここまでくると少し病的かもしれませんが(笑)、今、“自分の実感”というものを持ちにくくなっているのかなぁと思ったりもします。インターネットにつなげば、あれもこれも、誰かが経験していることで、これが自分の実感だという感覚を“つかみ損なう”という不思議なジレンマ。これは、誰かと一緒じゃヤだ!という、僕の非常に個人的な性癖というだけかもしれませんが(笑)、まぁ、それすらも僕しか持ち得ない実感なので、大事にしてやろうとも思っているんです。こういう実感や怖れがあったからこそ、瓢箪から駒なこともあったりしますし(笑)。まぁ僕は、多様な批判を仮想すること自体が癖になってしまったのかもしれませんね。だからこそ“自己本位への回帰”、“営みへの回帰”、“自分にとっての意味やストーリーへの信頼”という基本的なことが、自分自身への課題になるんだと思います。

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おっとここでニュース速報です…
ということで番組復帰はしばらく後になります:-)

いえいえ、すでに充分リアクトになっております。seimjの言う「編集」は私にとっての「Design」、「実感」は「直感」だなーと実感してます。そんな実感の共鳴があるかないか。良い仕事になりそうだという時には、なにやら天地からそんな声で聞こえてきたり。「おっこれはなにか起きるな」という予感を感じている時点で、すでに共鳴は始まっているのでしょう。

私は、仕事の本質を共鳴に求めたいというところがあります。これが甘えに転じることもあれば、揺り戻し合う中で大きな増幅になる場合もあると。

形としてのリアクトやリレーにこだわらず、共鳴や連鎖で良いではないですか〜。

あ〜そろそろ焼き鳥で一杯やりたくなってきましたよ。こりゃぁアナログですかね(笑)

(m01)

 まだCM中ですよね(笑)? 

 “信頼”などと言うと、青臭い書生論だと思われるかもしれませんが、もう少し続けます。CM中ですから(笑)。

 僕が編集者という立場でこれまでやってきたこと、それは「あなたの信頼を信頼します」ということだったように思います。僕がある特集記事を立案したとします。そのとき、おぼろげにでも確信的にでも、ライターさんの名前が思い浮かんでいる(もちろん、ライターを先に決めて企画を考えることもあります)。これは、いたずらにアドレス帳をめくっているわけではありません。僕の周りには、編集者とライターという関係で一緒に仕事をするという以上に、編集者としての僕を育ててくれたライターさんがたくさんいて、僕の中には、彼らとの長い付き合いの中で、1回1回、丁寧に積み重ねてきたものが蓄積されている。この蓄積は、僕個人の“編集”によるものですから、相手からみればお門違いかもしれないし、はみ出しているかもしれない。でも、この編集は、そもそも「あっ、この人おもしろいな、この人いいな」と興味を持ってその人のことを知りたいという気持ちがあって僕のブラックボックスの中に吸い上げたのがきっかけですから、それこそおぼろげにでも確信的にでも、その人は僕のストーリーの中でイキイキとしている。まず僕はこの自分自身の“実感”を信頼しています。

 ここからは、m01さんと何度となく実践してきたことですが、原稿をお願いするとき、もちろん真っ白なキャンバスを渡して「ここに自由に絵を描いてください」とは言いませんが(言ったこともありましたっけ?)、僕のやり方は、少しこれに近い。真っ白じゃないというだけで。企画の目的や対象とする読者、記事の大まかな項目立て(目次ですね)などなどは常に懐に抱えて、打ち合わす用があればいつでも出せるようにはしておきますが、「ここだけはこうしてほしい」など、だいたいのことを説明して、あとは僕が最初の読者になるのを楽しみにしている。そもそも、上述した“イキイキとした姿”を信頼していますから。もちろん実際の僕はいろいろジタバタしてますけど(笑)。

 誤解のないように言いますが、イキイキとしているというのは、悩みもなく自由に振る舞っている姿のことではありません。会話の中ににじみ出てくるもの──例えばその人の興味であったり、何を面白いと感じるかであったりするのはもちろん、この事実を表現するときにこういう語彙を使うとか、どういうところを自分の領域外と感じているか、とか、その人がそれらを信頼するに至った“実感”が、僕のストーリーの中でイキイキとしているんです。その実感は、金太郎飴の切り口であって、背後にはズドォーーーーンと“その人のストーリー”が広がっている。僕はその切り口と丁寧に付き合ってきたんだから、背後にあるその人のストーリーを信頼していますと、簡単に言える。金太郎飴ですから、切り口の奥も想像はできるじゃないですか(笑)。もちろん僕の方から“奥”は切れないので、「あなたのストーリーを“知っている”」なんてことは絶対に言いませんが、それでも信頼する。それが僕の自己本位でもありますから。「それはお前だけの自己本位だろ!」とお叱りも受けそうですが、そういう企画もあったことは、ぜひ水に流してください〜(笑)!

 m01さんの投稿には何一つリアクトしていないCM中の一言でした……。で、アメリカもでしたよね……もうすぐCM、終わっちゃいますか?

(seimj)

なるほど、編集はツールを使う以前に出口は見えている…。私の言ったことはそれを反対側から見た、ツールを使うシチュエーションはあっても実際にはブラックボックスに通す作業を通っていない=編集されていないものが流布される。そこが、seimjの言うデジタル側から見ているということなのかもしれないなと少し思いました。

今ちょっとビックリしているのは、自分もまた「自分のフィルターを通す」という語彙で自分の中に同様の考えをもっていたものの、やはりともすればブラックボックスを通さずツールを通して済ませていることがまだまだあるのだなということです。あたかも粉をふるいにかけて、水回しをして、手でまんべんなく感触を確かめ、塩梅を見ながら寝かせて、そしてまとめてこねていく…。それを、ふるいの行程、水回しの行程、混ぜ、寝かせ、と機械化していくことで失われてしまう何かを求めていながら、やはり何かの拍子にその作業を機械的にしてしまっていることがある。
自分が、今まで、そして今現在「うまくいっていない」と感じた仕事は、すべて自分のブラックボックスを通す作業を自ら回避していたり、周囲がそれを要求していない状態で進めなければならなかったり。そもそもツールと自分の区別が付いていなかったり、したものだったなという反省に、改めて帰着した感があります。

あぁなんだかわかりにくいですね。うまく文章にできていないけれど、あぁなるほどこれがアナログ側とデジタル側とも言えるし、それを行ったり来たりしている自分の姿を客観的に見てしまった。まるで小説の中で、犯人がこちらを向いた瞬間に、それが実は自分の顔だった!みたいな衝撃。あぁ実はツールではなく俺自身が犯人だったのか。俺じゃない俺じゃないと言う気持ちが、実はブラックボックスを通すという「指紋を残す」に等しい行為を忌避していたのかもしれません。それは他人からすると「本気ではない」「嘘」に見えるのでしょう。あぁまたしてもいろいろな点がひとつの線につながっていく…。今の自分の問題がここに集約されるなぁ。

まぁこんな自意識過剰な自白は置いといて(笑)、seimjの言う自己本位であるとか「自分を信頼する」という事に関しては、そういう言葉自体が前面に出てくるところに、そこに葛藤があると感じるのですが、それがクオリティに対するものなのか、それとも「自分自身にとっての意味やストーリー」は熟考を重ねつつも、実際の形にすること、表現としてアウトプットすることに対して感じたものなのかと思うところがあります。

私の中の個人的な割り切りとして、外に出したものはすべてデジタルだと思っています。日記にしろ原稿にしろ。頭の中にあるもの、心の中にあるものを文字にして外に出した瞬間に1/100くらいに削げてしまう。ただ、10文字のタイトルがあったときに、それが黒い色で印刷されていると違和感があるのだけれども、赤だと納得がいく。そんな部分での補填をデザインとか編集作業に求める気持ちがあります。そこはseimjの言うところの「情報にする」というところですよね。こうした補填を必要としない「一人歩きできる文章」ってのが書けたら凄いなぁと思うのですが、自分の場合は何かしらの補填を「言い訳」として付け足さないと外を歩かせるには忍びないところがあります。それはひとつ覚悟が足りていないと言うことかもしれませんし、あげくの果てに補填というツールだけが表現のふりをしてしまうこともあったり。そうなると「やっつけた」仕事になってしまいますね。
表現するか否かということについて、私は人間はとりたてて表現なんかしなくても生きていけなくてはいかんという気持ちがあります。表現というより営みというか。表現を餌とせずとも、利益や名声を追求せずに営んでいける心に満たされていたい。表現として歌、文字ではなく、営みとしての歌や文字。名も無き職人が作った陶器には表現よりもむしろ心がこもっているというような。その営みを蓄積して行かなければ、自分にとっての意味やストーリーも生まれてこないと。
営みという言葉が正確かどうかはわからないのですが、そこから見ると、ヨーロッパには生活の営みを感じるけれど、アメリカには「建国の営み」しか見えてこないと感じる自分がいます。土地を占拠し、そこに文化を持ち込み自国の力を築いていくというものをアメリカの本質に感じます。そこには夢のような憧れもあるのだけれど、芸術面を見てみると本流はヨーロッパだと感じてみたり。日本も敗戦で日本であることを失った面があると思うのですが、実は一番根っこが無いのはアメリカなのかもしれず、もはや開拓すべき対象を無理矢理作っている開拓マシンの暴走。日本には、アメリカのツールはたくさん入ってきたけれど、結局日本が持つブラックボックスを通そうとすればするほど、営みと合致しない面が出てきている。これって編集に関して言えば、ビジョンが「営み」にあるのか「開拓」にあるのか。seimjと一緒にやってきた連載なんかは、皆開拓ではありましたね。自分はもうアメリカウイルスに感染しまくっているということでしょう。やはり70年代の第一波の初期衝動が強く残っているということでしょう。あぁもう少し営みにしていかなければという反省ばかりに駆られてきましたよ(笑)

とりあえず、アメリカのつづきを読む前に、ちょっと頭を整理すべく書いてみました。ここには大いなる私の自己本位が横たわっています(笑)まぁCM中の発言みたいなものということで:-)

(m01)

「今、一番足りないのが編集」と言うときの“編集”の意味を、まず自分なりに考えてみようと思います。実は、あらゆるものが“編集されたもの”でもあります。今、僕の目の前にある冷蔵庫が、椅子が、テーブルが、戸が、床板が、窓が、マグカップが、キッチンペイパーが……とにかく編集されていないものは1つもない。この事実が示しているのは、それらが“誰か(何か)のために作られた(表現された)もの”であるということだと思います。上で列挙したものはすべて“商品”ですが、“商品”の場合には、編集の彼岸に“消費者のニーズ”があります。もちろん“ニーズを掘り起こす”ということも編集の1つ。では、商品でないもの、例えば“芸術作品”の場合はどうだろう? 芸術作品が“商品”であるかないかどうかはひとまず横に置いたとして、それが愛する人のためのものであれ、平和を希求したものであれ、自分自身の苦しみや絶望との対話であれ、形がなかったものに形を与えるという意味で、すべて“編集を加えた表現”ではなんだと思います。当然、形を持つということは質量を持つことだけではない。つまり、編集の此岸にあった“形がなかったもの”を、私というブラックボックスを通して“表現した”ということになるんじゃないかと思います。ここで大事なことは、“私にとって”形がなかったということ。それをブラックボックスに取り込む、まさにその作業に、すでに編集という作業が含まれている。ということは、この“私というブラックボックス”を通すことこそが、まず第一義的な編集なのではないか?と。で、それを“表現するか否か”は、また別の原動力が必要となる別次元の話なので、また別項にて。

この“私というブラックボックス”には“自己性の回路”が間違いなく備わっています。原初的にDNAレベルでそうでしょうが、形がなかったものは自己性の回路を通過して、何らかの未整理の煩雑とした形を与えられる。また、形があったものも、自己性の回路を通過して、形を変える。ただ、今このように“通過する”と表現したような客観的な時間経過の中で、形のないものは、後述の意味で、私というブラックボックスには入ってこないんだと思います。つまり自己性の回路というのは単なる通り道なのではなく、吸い込み口を持って水を切望する渇いた反応体なんじゃないか……。まぁ“形がない”と思った時点で、満月を知って三日月と言うように、すでに“欠如”という反力が働いているんだと思いますけど、そこも含め、僕が言いたいことは、自分というブラックボックスに取り込もうとする意志や力が、すでに編集なんじゃないかということです。その力はすでに取り込むフォーマットというか、フィルターの網の目の形みたいなものをぼんやり成形していて、形のないものを漠然とした形にしながら、自己性という反応体の中に浸透して、私にとっての意味やストーリーを形作っていく……ようなイメージで。

怖いですね……編集っていうのは“自分自身にとっての意味やストーリー”ということになってしまいました。ある意味、これは疑いようのない事実だと思います。でも「この地点から“表現”に向けて出発しようよ!」という気持ちは持っていたい。そのためには「自分にとっての意味やストーリー」を“信頼”しなきゃいけない。ツールの進化に、ある意味、蝕まれているのはココなのかなぁと思ったりします。編集はツールに左右されてはいけない、というか、ツールを使う以前に出口は見えているはずですから。

 

で、ここから「アメリカ」かぁ……(汗)。

まず卑近な話、僕はアメリカ大好き少年でした。毎週土曜日、23時になると10チャンネルに回し、当時はまだ有線だったビデオのリモコンというかリモートコントローラーの録音ボタンをすぐ押せるようにスタンバイ、するとVapour Trailsの「Don’t Worry Baby」が流れ、アルバムジャケットがドミノ式に倒れていく様を見て一気に高揚!──なんて小学生でした。当時の歌は、いまだに歌詞はわからないけど歌えます(笑)。どうしても一緒に歌いたいから、番組をテレビからカセットに録音して、何度も巻き戻して歌詞を聴こえるままにカタカナに直したりしてたんで(笑)。

それにPVや映画に出てくるアメリカの少し高級と思われる住宅街にも憧れてましたねぇ。どの家にも青々とした適度に刈られた芝生ゾーンがあり、きれいに区画された、緑も豊かな、広々とした開放感のある街並み。そこを舞台に「今日はダンスパーティーだから、あの娘を誘って……」なんて、高校生のくせに車であの娘を迎えに行くってよくあるストーリー。まだ小学生の僕は、それだけで大興奮!でした。

で、極めつけは、中学生のときに観た『オレゴンから愛』ですね。単身でオレゴンの親戚の元へ預けられた少年が大自然の中で逞しく育っていく姿を見て、当時は、そんな境遇に憧れたものでした。まぁランちゃんが出ていたのもデカかったんですが(笑)。

入り口がそんな状態で憧れを抱いたまま、アメリカに対して何の疑いもなく80年代を過ごしてきました。ロンとヤスは仲良し!、そんな感じです(笑)。でも、そこから数十年、ある意味、その初期衝動が変わらないんですよねぇ。個人レベルの交流でも、その憧れを裏切られたことがないし、彼らのコミュニケーションを見習いたいとすら思っています。1つ、自分にとって大きな経験がありました。大学時代、当時サンフランシスコに留学していた彼女を追って行ったときのこと(笑)。大学にモグって哲学の講義を受けてみました。日本でいうところの一般教養的なもので、生徒が感覚的にわかるようなかみ砕いた内容も非常に好感が持てましたが、何より、生徒がしゃべるんです。手を挙げなくても先生の解説に意見を言うし、そこから話がどんどん弾んでいく。結局は自分もみんなも理解が深まるわけです。授業は自分で作っていく。で、一番驚いたのが、手を挙げている生徒のもう一方の手のアイス! 私語を慎んで静かに先生の一方的な話を聞いているフリをする、どこかの国の授業とは違い、アイス食おうがジュース飲もうがお菓子食べようが、知りたいことは知りたいんだという姿勢、体裁の美しさじゃなくて中身の充実……これはカルチャーショックでした。

(つづく──seimj

いや〜難しくも面白くなってきましたね。そういえば、自己認識はともかく、お互いにお互いのことをドッチ派だと思いながら話してるんでしょうかコレは。私はseimjという方は充分デジタルだと思ってますけど(笑)

人間っていうのは、能力拡張に対して夢というか原動力を持っていると思うのです。その中で、デジタルという情報伝達は便利な記号化なのではないかと。高速な論理処理、迅速な意志決定っていうのも、人間が「迷い」や「悩み」「停滞」を克服したいというところもあるんじゃないかと。僕なんかは、頭がスッキリしてる状態とかすごく好きで、いろんな発想や、自分の行動に対するビジョンやイメージが湧いてくることをいつも待っているのですが、どうやったらそういうものを拡張できるのかなと思っている感じです。ただ、そういうものを克服する→逃れたい→脆弱という図式もあるとも思います。お金を手に入れるのと似ているのかもしれません。それにしても僕は女性の返事を待つのに2週間待てないタイプですね〜。原稿はいくらでも待って欲しいですけど(笑)

最近、インターネットがいきなり使えなくなったらどうなるだろうかと思うことがあります。今、誰とも無く読んでもらっている自分の日記も、毎日読んでいるいろいろなサイトも見られなくなる。そして連絡はすべて電話や来訪、買い物はお店で。うーん。そうなった時に「ネットがあればなぁ」となるのか、すっぱりドラッグをやめたときの気持ちになれるのか。ヤフオクでついスネア買っちゃうとか、ブログ見て回るとか、そういうことに使う時間がなくなって、ついでに携帯もなくなったら、またヒマになるだろうな、でもイメージとかテレパシーとか念は強く復活するだろうなと思ってみたり。

マスメディアの縮図ってのいうのは、すごくあると思うんですよ。ラジオ風にやってみたい、テレビ風にやってみたい、アーティスト風にバンドをやってみたいっていうか。テープレコーダーにアナウンサーみたいな声で録音して「なんか俺ってばアナウンサーなれんじゃね?」みたいなことだけでも楽しい、みたいなメディアごっことしての楽しみ。そこには、形としての満足感があるというか。まぁギター持って髪の毛立てて写真撮って、それだけだって楽しいっちゅうか。まぁそんなのは縮図と言うにはまだまだのものでしょうけど、どんなに編集された情報でも受け手の咀嚼加減によってはこういうスタイル遊びにもなってしまう。ただ、こういうスタイル遊びが仕事になるのかならないのかと言えば、なって欲しいなぁとも思うんですよ。仕事に必要なのはなんなのかなーといつも思うんですけど、遊びと愛と哲学…かなぁ。遊びはクリエイティヴィティを支えるし、愛はコミュニケーション、哲学はクオリティでしょうか。哲学というより学問かもしれません。あれれ、つい先日書いた原稿みたいになってきました(笑)誰か一人のなかに、そういう要素が揃っている場合もあれば、無鉄砲でクオリティが満足でなくとも、とにかくやってしまうクリエイターを、愛と哲学で編集してディストリビュートする図式もある。

話を戻すと、デジタル情報の「編集」っていうものが確立されてないんだと思うんです。ネットなんかだと画面を見ている限りは2次元ですけれど、時間によって情報は変化する、しかし時間軸を含めた「伝わり方」をコントロールする編集作業を誰も知らない。受け手は無作為に、そして絶え間なく受け取り続ける。メールは「すぐ」来るものだけれど、「いつ来る」のかはわからない。そんなペースにさらされた人間が余裕という名の時間の隙間を失うという面。それを交通整理するための編集とは…。それは是非あなたにやっていただきたい(笑)ブログなんてのは、ひとつの「編集の形」だと思うんです。ネット上の文字=テキストに、「言外に漂うニュアンス」を感じさせるスタンダードな形態というか。普通に日記を載せてもなんか様になってしまう。ただ、ブログの形は僕の日記なんかを載せてもなんか違うんですよね。「言外に漂うニュアンス」が変わってしまうというか。おそらく取材対象とどう向き合うかっていうことを、自分相手にやっている。ある意味、ドラムもネットもそういう方向で使う意外にあまり興味がない。用意された娯楽とかあまり興味ないといいますか。おそらく自分を自分で編集する作業をやりながら死んでいくのだろうと思っています。ま、孤独で狭いやつなんですよ僕(笑)

自己本位という力を持ったときに、たとえば「取材」という仕事に対して持っているものは、愛なのかロジックなのか哲学なのか。そもそも学問はロジックなのか、哲学はロジックなのか、愛をロジックで表現できないのか。おそらくseimjという人の中にあるものは、あまりにそれは壮大すぎて「無常」という域に達しているのでしょう。というか、やはりそこに到達しているからこそ編集者なのでしょうけれど。

長くなりましたが、デジタルという視点で見たときにはツールの進化が見えやすくなるんだと思います。QuarkExpressを使うのがなんだか楽しい、Illustratorでの作業に何時間も没頭できる、みたいな適性を入り口として如何に「情報にする」という中心に近づいていくか。ただ、外側から見れば「なんでぇマックに向いてたって作品はできねぇぞ」てなことにもなるでしょうか。まぁツールを使おうが使うまいが一緒でしょうけれど。ツールっていうのを、身体拡張、脳の拡張を促すものと考えると、そこには「脳がサボルための」ツールと「目的に達するための」ツールがあると思っています。ツールは、今まで出来なかったことができるような気にさせてくれる面もあるし、そういう面を利用した商売もある。どんな複雑な問題にも「解」はあるんだという、勇気と希望と奢りの混じり合った世界。あぁこれってアメリカそのものですかね(笑)で、ツールの進化が見えると、本質である「表現についての考察」が時間的におろそかになったり、バランスとして見えにくくなりやすいのかなと。ま、スネアとかシンバルとかいじるよりとっとと練習しろって感じでしょうか(笑)

といったところで、ツールについて質問をしようかと思ったのですが、それよりもアメリカについてどう思っているのかを聞きたくなりました。「和」なものと「英」なものへの愛はあるでしょう?「米」については?(それにしても日本人の一番大事な「コメ」というアメリカにつけていながら、米問題とはこれいかに)

(m01)