2009年1月


被害妄想という言葉が印象に残りました。コミュニケーションにおけるレスポンスの迅速化と引き替えに、確かに心的な“余裕”を失ってしまったし、それに比例するように、強制的に被害的な妄想が膨らんでいく。個人的な経験でも、これは仕方ないことだと思えます。メールがない時代、アメリカにAir Mailを送れば、最短でも1週間はかかりました。読んだ相手が即座に返信を投函したとしても、僕が相手の気持ちを知るまでに2週間はかかる。まぁ僕は早く相手の女性の気持ちを知りたかったわけですが(笑)、この2週間の間、相手の気持ちはどうだろうか?と思案をめぐらせはするものの、この期間は想定内であり、許容範囲なわけです。ただ、2週間を超えても返信が届かないとなると、話は違ってきます。「何かあったのか?」、「返事をしづらいことでもあるのか?」……果ては「病気でもしたか?」、「このまま連絡をとらない気か?」と、妄想はとんでもない方向へと暴走していきました。この2週間が、現在は、数分、いや、数十秒になっているというような話も聞きます。文字通り“余裕”がなくなっているんですね。

迅速化と共に多様化もその原因ですね。ツールを介したコミュニケーションでは、ツールやサイトごとにコミュニティを形成し、1人が関わるコミュニティの数に比例して、さきほどの余裕もなくなってくるのでしょう。これが被害妄想と結びつく可能性は大いにあるし、書き込みなどで現実の“被害”に遭う可能性も、その分、大きくなるのでしょう。この“数のコミュニケーション”の中で生きていくのは僕のような小心者にはとうてい無理です。「量より質」「ヘタな鉄砲は数打っても当たらない」がモットーですから(笑)。

ちなみに個人的には、さきほどの被害妄想を克服したと感じたのは、先日書いた“自己本位”が実践できていると自覚してからでした。

そしてメディアの話。デジタルによって民衆が発信する手段を持ったとき、その方法は、いかにもマスメディアの縮図でしかないように見えます。マスメディアは、“何を”発信するかについては、あまりに無思慮で雑多で拙ささえ感じるし(無思慮で雑多がいい場合ももちろんあります)、そしてそれを“どう”発信するかは、あまりに画一的で限られているように感じます。そのすべてに関わっているのが“編集”という作業なんですよね……。事実と表現の仲介役である編集者のさじ加減1つで、情報はどうにでもなる。先日、僕の好きなラジオ番組で大瀧詠一氏が興味深い発言をしていました。とあるラジオ番組にゲスト出演したときに、そこでの会話を単行本にしたいという依頼があった。番組ホストとは旧知の間柄で仲も良いが、最近は文字/活字にする危険性が高いと感じていて、その依頼を断ったそうです。仲介役である編集者が、言外に漂うニュアンスをまったく解さずに言葉を一字一句起こしていく、つまり「洒落がきかない」というわけです。ここでの「洒落がきかない」という表現すら額面通りに受け取ってはいけない言葉でしたが(笑)、僕にとって本当に背筋がピン!となる表現でした。僕たち編集者は、情報を発信する以前に、まずそれを“情報にする”ことが先決なんですね。そのためには、必要十分な準備は当然として、取材対象(In)から→表現(Out)へのthroughoutに流れているムードや空気やニュアンスをつかまなければならない(そのどこかのポイントで必ず“人”が関係しているのだから)。ただそこには、編集者個人の確固たる“何をどう表現したいか”もなきゃいけないし、同時にそことの妥協点も常に探っていなければいけない……。僕は、やはり取材対象と質的にどれだけ向き合ったかだと思ってしまいます、それを“情報にする”ためには。まぁ向き合い方も“無限”であり“無常”なんですが……。他者をそもそも含んでいる“自己本位”は、この“無常”の上に成り立っているんだと思います。

しかし現代は、即効性や切り売りが欠かせない時代。長い時間をかけて向き合い育っているものとか、無常なものに興じている余裕がないし、余裕を認めない空気さえ感じます。あまりに“正解”や“答え”や“正確”といったものが“生活”に結びついているのではないでしょうか。これはデジタルを生み出した論理的基盤である学問の奢りなのでは?……と、学生時代からそんなことを考えていました。

(seimj)

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なるほど、アナログ人間は定量化せずに「表現しない領域」を見定めながらコミュニケーションを取っているということですかね。日本のそういうところを言う人は少なくないと思うのですが、実は昔から、そこに関してはよくわかってないのです(笑)私はコミュニケーションに関してとても欠如していると昔から認識していて、おそらく反射がすべてで、思考しながらコミュニケーションが取れないのですね。今ここでこんなことを言った方が良いのだろうとか、こんな時にどう言ったらよいのだろうとか。そういうことを組み立てることができないんですよ(笑)あくまで勝手に何か言ってしまうか黙ってしまうか。

そういう意味では、今言っているアナログ的コミュニケーションができるというのは、そういう判断力がある=定量化しないと判断できないデジタルより能力が高いという意識があって、一体全体活路というのは、デジタル側の方が狭いのではないかとも思うのです。言ってみれば、譜面に書いてあることしか演奏できないのが私で、書いてなくても何を演奏すればよいか理解してコミュニケートできてしまうアナログ派に畏怖を感じるというか。

デジタルへのシフトは、知能の低下とか、前提となる知識や人間性の教育やそういった高度なコミュニケーションからの逃避という面もあるように思います。もしくはその「表現しない」曖昧さの中にあった愛を逆手にとって利用した、愛の無い行為に人々が不信を抱いたとか。「細かいことは言わなくてもいいじゃない」という余裕がなくなったのでしょうか。個人主義が進んだ故の自意識過剰とか利己主義、被害妄想なんてものも裏にありそうですけど。

いずれにせよ、今言っているところのデジタルな世界の中では、最適化とか合理化とか、正確(と感じる)分析を実現しようとしているわけでしょうけれど、それによって今までごく自然だった行動が自己本位なものとして定義できてしまっているのかもしれませんね。デジタルの世界には、領域学みたいなものが必要なのかもしれません。0ではないけれど0とする領域の設定とか。そもそもデジタルは誤差の宝庫な筈なんですけど。でも、そういう中にある誤差によって企業が利益を上げたりしているので、みな是正したいのかも知れず、今は皆が皆自分で自分を締めながらも他人の事情をとことん追求したい時代なのではないでしょうか。おそらく人類の歴史上初めて、そういうテクノロジーが民衆に解放されたために、他人の事情を知りたくてたまらないし、今まで不透明だったことを揶揄したり糾弾したりしたくてたまらないのでしょう。メトロノームを手に入れたアレンジャーが、不満を感じていたドラマーの演奏をメトロノームと比べることで、追求するネタを探そうとしているような(笑)

話題がそれますが、こういうところにはメディアも関係すると思っています。情報を受け取る中で生まれた疑念や懐疑というものがいつしか充分に膨らんでいて、デジタルによって発信する手段を持った民衆が、発信する側に立とうとしているというか。その中には正義もあれば、不正義もあるでしょう。

まぁそういう意味では、デジタル=武器を持って押し寄せる植民者、アナログ=追われる先住民という図式かもしれませんが、実はそれも被害妄想かもしれません(笑)一度定量化に慣れると、逆に別の逃げ場があるようにも思うのです。あっそこが何かを言えばいいのか…。ううむそれって何だろう(笑)

ちなみに、音楽やドラムの世界では、融合した新感覚はたくさん存在してますよね。というか、音楽の中で実現されているああいう方法論を現実の生活でも実現したいなぁ。やっぱネットがつながってAmazonでいつでも買い物できる田舎で生活する、みたいな(笑)

(m01)

そうですね。アナログの「もう無理」という領域を数値化(する可能性を探究)しようとしているということは感じます。でも、特に日本には、「もう無理」の領域は、結構「あえてその部分を表現しない」であったり、それこそが“美”という価値観がありますよね。「表現しない」と「表現しない」でコミュニケーションが成り立つ独特な世界……。でも今や、「表現しない」、もっと言えば「表現しなくてもいい」ことすら「0,1」で表現しようとしているのでしょうか。アナログからデジタルへの移行は、ある種のパラダイム・シフトだと思いますが(──このシフトのそもそもの原動力って何だったんだろう?──)、シフトではなく、融合したときに生まれる“新感覚”みたいなものに、もっと注目していきたいと思ってます。特に音楽やドラムの世界で(笑)。

 

あと「自己本位」の言葉で意図したかったのは、夏目漱石『私の個人主義』的なもの、力(量)と方向性を持つ原初的な衝動といったところでしょうか。高校生のときに、教科書ではなく先生が持ってきたプリントで読んだのが初めてでしたが、非常に感銘を受けたのを覚えています。全文を20年以上ぶりに読み直しましたが、感銘ポイントは少し変わったとはいえ、この漱石の考え方が今でも自分の核心の1つとして残っていることがわかりました。だから僕は“悩む”のかなぁ……(笑)。

(seimj)

 いやぁ素晴らしいですね。今やどんな方向にでも理論は展開することができるし、どんなものでもネガティヴに捕らえられる。そんな中で100%ポジティヴ、もしくは完全な安寧は、望むことすら難しい。ただ「行う」ということのために、自己本位という言葉すら覚悟しなくちゃならないというのは、世の中がタイトってことでしょうか。

[Re: アナログ人間の活路]
 ちょっと即答から逃げます(笑)世の中がデジタルであることがタイトであることと、ちょっと関係しているのでしょうか。デジタルツールによるコミュニケーションは確かにタイトというか、ある種一方的というか、コミュニケーションの形を取ったガジェット遊びというか。デジタル化され定量化された情報量の中でのコミュニケーションに対してのアナログ人間の活路ということであれば、やっぱ表情とか触感とか、果ては念力や眼力とか。
 また、デジタルってのは分析学みたいなもんだと思うのですが、アナログの世界では「もう無理」と言ってしまうようなことを、0.001%の可能性が残っている、というような定量化を表現できてしまうようなところがあるように思います。実際の所はこれがデジタルの本質ではないにしても、気分で割り切れなくなってしまうというような。

 ところでアナログ人間って誰のことですか(笑)

(m01)

[Re:はじめに]

ま、マジすか……? いきなりのヘヴィなお題に当惑しています。このblogが役目を終えるときの、最後のテーマになってもいいくらいのものじゃないスか? ただ、「最初は最後、最後は最初」みたいなところも今後のテーマになっていくのかなと勝手に想像し、このテーマにも当たって砕けてみたいと思います。

 雑音に惑わされない集中力ってことを考えることがあります。例えば、こっちが話しかけているのに返事もしないで読書に没頭している人がいるとします。こちらとしては「返事もしないで……」とイラっとキますが、一方で、その集中力ってすごいなぁと感心すらします。「返事や挨拶はもちろん、人の話を聞くことはとっても大切なこと」だと子供にも教えますが、子供が遊びに没頭しているときの集中力には、ものすごいエネルギーが込められている。そしてそこにはイノセントな真剣さが見えます。

翻って僕自身は、何をしていても、どこから誰に話しかけられても反応できる。外界に対して常に意識を開いている。これが自分の特殊能力だと感じることもありますが、逆に、今やっていることに対して集中していなかったのだと、試しに、本を読んでいたとしたら、少し前を読み返してみる……と、あれ? ここ読んだっけ?……なんてこともしばし。そんなことが続くと、たまに「自分がやっていることは誰かに向けたポーズ?」なんて考えてしまう。いやいや「自分のため」だ! でも、内容は覚えてない……そんじゃ結局、自分のためになってないんじゃん! じゃあ逆に、前述の集中力はどこからくるのか? やっぱり「自分のため度」が高い分、集中力も上がると思うし、真剣な分、好きな分、集中力が増すんだと思えます。

「まずは自分だけで完結する、自分のための実利を取る」って大切なんだと思います(「じゃあ、人から借金して返せないから殺しちゃってもいいのか?」みたいな話は、まず自分だけで完結しない[他人が絡んでくる]ので別)。僕も経験はありますが、集中して取り組んで何かを得たときの達成感や爽快感って格別ですよね。このポジティヴな気持ちは、上述した、話を聞かれてないときのイラっとした相手の気持ちを、多分に包み込むゆとりがある。逆に、自分のための実利はさておき、人に期待する期待通りにいかないと不満を募らせるこの不満を持って相手に対するもっと期待通りにいかない→……と、まさに悪循環、出口なしのスパイラルにずっぽし、というケースは、けっこうあるんじゃないかと思うんです(僕もご多分に漏れず)。ならば、まずはミニマムなシンプルな社会の中で人より自分がいい。

もちろん僕がこうやって生きてきたわけでもなんでもありません。むしろ、ここからすべてを始めないと、何も始まらないのかな?みたいなことを、最近時間があるので、よく考えるんです。実は何も始まっていない=自分から何も始めていない、この閉塞感を、まずは自己完結する自分の実利を取ることで打破していきたいなと。このプロセスと実利に付帯する達成感や爽快感が陽のスパイラルとなって人を巻き込み、大きな渦になることを信じて。  

 

では、こちらから投げてみます。

[SQ_1]この時代、アナログ人間はどこに活路を見いだせばいいのでしょう?

(seimj)

某編集者とライターのリレーコラムをテスト発信してみたいと思います。

では早速投げます。

今現在、人が生きていくのに必要なもの、もしくは求められているものって一体どんなものなんでしょう?

(m01)